我ながら、真面目な話。

 「フリーズ!」との警告を無視してくる奴は、撃ってよいか?
 通州事件に慄き、報復的あるいは予防的な攻撃を行ってよいか?
 生物化学兵器が存在しないこと、脅威が存在しないこと、つまりは不安に思う必要はないことを積極的に立証しなかった者は、攻撃されてよいか?

 どれも一概にこたえられる問いではない。したがってまた、ソ連革命・赤色テロへの恐怖、その恐怖ゆえの反応がどのていど許されるかも、一概にはこたえがたい。
 ロシアの野蛮、そこからくるアナーキー・暴力への恐怖というものが、たしかに、第一次世界大戦以後のドイツにおいては、一定の心理的事実として存在した。指の白い人間が片っ端から粛清されている(との風聞の)事実性。正確にいえば、ロシア式の共産主義(革命)を待望しているドイツ人以外にとっては、であるが。

 そのリアルなロシア脅威論あるいは「感」は、第二次世界大戦後、ナチ・ドイツの野蛮の影に抑え込まれ、公式には、なかったかのように扱われたといってよい。ドイツ国内においても、ソ連の「属国」にされた東欧諸国においても。
 が、一九八〇年代後半からソ連が弱体化し、崩壊していくなかで、たとえば、カチンの森虐殺事件の真相が明るみになるなど、より戻しが進んできた。
 「歴史家論争」においてノルテが、ヒトラー個人の心理的事実(への推測)に依拠して、ナチ・ドイツのお手本をスターリン・ソ連に遡っていくのも、そうした時代状況とかかわっているかもしれない(時間的な前後関係は細かくつめる必要はあるが)。戦後しばらくは、そうした推論は、ただアクロバチックなだけでなく、PC的にも不可能だったはずだが、ソ連が消滅し、ドイツが再統一した今日では、もはやタブーでなくなりつつあるようだ。
 もっとも、理論的には、ナチ・ドイツとソ連を同列とみる視点ははやくからあった。アレントの全体主義論である。が、彼女の議論は、ロシアが恐いから反射的・予防的に叩く、といった(ヒトラーその他の)心理的事実関係の推論ではなく、政治体制や国家制度に関する原理的な考察であって、ノルテ的な「推論」とは異なる。

 第一次世界大戦後の世界感へのヨリ戻しは、ドイツ国内だけでなく、東欧でも広まりつつある。そんなことを如実に伝えるニュースが、今朝の新聞に出ていた(朝日2009.7.31.p.9)。

 7月3日、欧州安保協力機構(OSCE)の議会で、人権と自由に関する決議が裁決され、そのなかに、次のような文言があった。

 「8月23日をスターリニズムとナチズムの犠牲者追悼の日にする」「二十世紀の欧州はナチスとスターリン主義という二つの全体主義体制を経験した」

 対してロシアには反発する声があり、18日には上院で、次のような声明が採択されるにいたる。

 「ソ連をヒトラーのナチスドイツと同列に扱おうとする試みはロシア国民への侮辱であり、受け入れ難い」

 どうだろうか? ドイツのネオナチはほくそ笑んでいるかもしれないが、まじめに考えるべき問いがたしかにある。たんに心理学的事実連関だけでなく、アレント的な全体主義批判も結局ロシア(ソ連)批判の「イデオロギー」にすぎないかどうか、争われることになるだろう。


 明治から冷戦終結までの日本にも、一貫して、ロシア論があって、ドイツと相似的であることは、すでにふれたことがある。その日本では、冷戦構造の終焉とともに、ロシアに代わって中韓(「特ア」)がなにかと憎悪の対象となっているが、北方領土問題の扱いによっては、ロシア脅威論が容易に再燃するだろう。
 戦前の日本の失敗は、中国の「脅威」への反応にあったのではなく、中国をむしろ見くびりすぎていたことにあったのだが、現在の日本の一部には、中国の経済力・軍事力への脅威感が、はっきりある。民主党が政権をとれば、日本人もいずれウィグル族のように扱われることになる、という想像力たくましい推論さえある(選挙前のネガティヴキャンペーンの定型句ではあるが)。
 とはいえ、歴史のスパンをもうすこし長くとれば、中国大陸はたしかに、つねに日本にとってはヘゲモニー的に上位であり、「圧倒的」国家だった。似たような境遇の韓国が中華に反発しているのをみて、ほくそ笑む日本人もいる ― 旧宗主国ロシアに噛みつくバルト三国をみてほくそ笑むドイツ人に似て。


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